ヤスヲの部屋

カレー、デニム、スニーカー、etc...

ジョブズの遺志は、松屋へ。

 

iPhone 11が発表され、搭載された3眼カメラに注目が集まっている。

 

その突飛とも言えるデザインは、ドラゴンボール天津飯のような、三ツ眼のキャラクターを彷彿とさせるが、いずれも人の理から外れている。件のiPhoneもまた、携帯電話の理を外れようとしているのだろう。

 

しかし、奇抜なデザインのみが先行し、スマートフォンでのカメラ体験を一眼レフに勝るとも劣らないステージまで引き上げたその技術に目を向ける人はいくらいるのか。一方で確かにイロモノとして見られてもしょうがないような尖ったスペックには、市場とのニーズのズレを感じてしまう。

 

このような状況を見ると、つい、ジョブズに思いを馳せずにはいられない。彼の目には今のAppleはどう映るのだろう。

 

しかし彼の遺志は確かに受け継がれているのだ。ところがそれはAppleではなく、今日飲食業界で世界を席巻している、松屋フーズグループである。

 

松屋は牛丼屋」と認識し、すき家吉野家と並べて語る人はさぞ多いだろう。しかしそれは大きな間違いであり、そればかりかそのような考えを持っている人はみな「牛丼ゆとり世代」であるとも言える。

 

すき家には日夜ところ構わずバイクをフカし100dBで談笑している連中が集まるのに対して、松屋にはネクタイをウィンザー・ノットで締めた高貴なビジネスマンの利用者が多いことも、その事実の裏付けとなっている。

 

また、松屋は常に最新のテクノロジーを追い求めており、飲食業界における技術力の頂点に君臨しているのだが、それについてはまた別の機会に紹介したい。

 

そんな松屋AppleiPhone 11の販売に先駆け、ある新メニューを提供している。その名も、「牛と味玉の豚角煮丼」である。

 

散歩コースに松屋が含まれている私は、新メニューの気配を肌で察知し、先日ついにその全貌を目の当たりにした。


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丼ぶりはいつも使われているものより広めで、溢れんばかりの具を見事にその体内に納めている。このときばかりは理性はすっかり鳴りを潜め、この丼を恣にしたいという欲求に身体は堪えきれなくなってしまうだろう。

 

丼の上にはニュートラルの牛肉と、味玉、でっぷりとした角煮と、彩りと薬味を兼ねた二種類のネギがある。しかしやはり特筆すべきは「沖縄ラフテー風」と銘打たれた角煮だろう。最近沖縄旅行に行く機会を自ら蹴り、今になって普通に暇だしとても楽しそうな様子を見て多少悔しい思いをしている私にはありがたい。

 

しかし、私は普段であれば角煮に対して大した期待はしない。フード・チェーンで提供される角煮にはジューシーさがなくもそっとしていることは少なくないからだ。

 

しかしどうだろう、その考えは箸でつついた瞬間に打ち砕かれる。箸の先からは「固さ」を微塵も感じさせない、そこにあるのは最早、あの部活帰りの夏の日に見た、入道雲のそれである。あるいは、夕暮れの茜空の下で感じた唇の柔らかさ。それほどまでに青春を思い起こさせ、たまらず口にいれた角煮はホロホロと溶けだし、「思い出」となり、全身に染み渡っていった。

 

加えて丼の上にあるのは「青春」だけではない。牛肉には普段と変わらない、母のような暖かさ。味玉の弾力と食べごたえは、厳しくも見守ってくれた恩師を彷彿とさせた。

 

そう、この丼は、言うなれば「10代の思い出」なのだ。「期間限定大盛り無料」というキャンペーンも10代のわんぱくさを思い出してしまい、ついつい大盛りにしてしまう。

 

牛肉・角煮・味玉の3つの内、どれが欠けても成立しない、そんな思い出を体現した丼であると考えられる。

 

ところで、この丼は3つ、大きな3つの要素で構成されていたのだ。この「3」という数字を私たちは知っているはずだ。

 

そう、iPhone 11である。奇しくも同じ「3」という特徴を持つ両者が、新メニューとして同じ時期にぶつかったことには何者かの意思を感じざるをえない。

 

そう、ジョブズである。さらに言えば、それはジョブズの遺志を宿した松屋であり、iPhone 11の対抗馬、ひいてはAppleを正しい道に導くために産み出したメニューが「牛と味玉の豚角煮丼」であると考察する。

 

新型を出せば勝手に売れるiPhoneが、まさか後ろから、飲食業界に刺されるとは誰が考えるだろう。しかし私はこの丼に出会い、込められたジョブズの想いを頭でなく、舌で理解した。Appleに対する銀の矢たりえると。

 

iPhone 11の対抗馬はGalaxyでもXperiaでもPixelでもない、松屋の沖縄ラフテー風「牛と味玉の豚角煮丼」であると、私はここに断言する。